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2018  21:34:10

スピリチュアルの方向づけ|ホーキンズ博士の著から

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12月は忙しくて、少し間が空いてしまいました。

では、前回の続きでDiscovery of the Presence of God: Devotional Nondualityを見ていきます。

スピリチュアルの進化は、ある所までは、教育や情報による知的ワーク(リニア)によって支持されますが、その後はノンリニアの領域に入り、主観的な経験そのものにシフトします。この時点で必要なワークは「手放すこと」です。英語では'relinquishing, letting go, and surrendering'と3つの言葉を使って強調されています。ポジショナリティを見分けて、エゴの抵抗と幻覚のコントロールを手放すのです。

ポジショナリティという言葉ですが、ホーキンズ博士の著によく出てきます。他に対する位置を定めるみたいな感じでしょうか?

While the ordinary ego is programmed to 'getting', spiritual intention now shifts to 'allowing', similar to floating in the water rather than flailing about or swimming in it.
普通のエゴは「得ること」をプログラムされていますが、スピリチュアルの意図はここで「任せる」にシフトします。水中でやたらに手足を動かしたり泳いだりするよりも、浮かぶという感じです。

実際のプロセスはシンプルなのですが、エゴ/マインドの抵抗に会うので困難になるそうです。

姿勢


行動を起こす'doing'よりも、たとえば「すべての生命に対して親切にする」と決心し同調する'being'が大切で、姿勢、態度ということになるのですね。普通のマインドにとって単に良いと見える姿勢は、スピリチュアルな意図やコミットメントに同調するとき、とても強力なツールになります。

また、神への祈りは謙遜にまったく身を任せることでうまく出来るようになります。謙遜は、エゴ/マインドがその構造やデザインにより、本質的に真実と虚偽の区別ができないという事実を真に認めることです。感情は、ポジショナリティと条件づけの反映と限定であるため、真実の指針にはなりません。

無我と謙遜はどちらもスピリチュアルの意志から来るポジティブな行動で、「得る」のではなくて「任せる」に積極的に同意します。

焦点


エゴは特定、そして視野のリニアな内容に志向します。その視覚への影響は、(操りやすくなるように)主として対象物の近い側に焦点を当てるため、排他的で限定されます。スピリットは状況と全体に志向するため、包括的で対象物の遠くの側に焦点を当て、視野はローカルではなく、広がっています。

エゴのポジションは双方向で複合的です。たとえば、怒りを解消するには、怒りを強調するプライドを手放す必要があるかもしれません。それは、願望を手放せるかどうかにかかっています。そうすると、願望を起こさせた恐怖を手放す必要が出てきます。そして今度は、恐怖の原因となる想像上の損失を解き放つことが必要になります、等々。このように動機づけは絡み合って相互に作用しています。

幾重にも重なっているようですが、深層のところまで行き着くと、その人の神についての信念やプログラムされたスピリチュアルの期待、信念システムが浮かび上がってくるということです。だから、スピリチュアルのワークは探求につき、原因と結果といった知的概念を超越するのです。

ここで役に立つのは、特定の意識レベルはそのレベルに類似のものを引き寄せることを理解することです。個人のセルフはマインドを通り抜ける思考を自分の思考だと考えたがりますが、実際は、ある意識レベルで広く行き渡っている思考に過ぎません。

スピリチュアルの意図は、特定のことを行うのではなく、目撃して観察することを補助し、強化し、焦点にします。スピリチュアルのプロセスは、自分を風や水の流れに置くようなものです。

スピリチュアルの動機や意図、アライメントは、たとえてみれば、影響の磁気や重力場を変えてるようなもので、それにより、状況がシフトし、別の解釈が見えてきます。たとえば、損失だと思われたものが隠れた利得(より大きな自由、機会や選択が広がるなど)という意味になるのです。比較すると、プライドの意識レベルでは選択肢はごく限られていますが、意欲、無我、受容の意識レベルでは、選択肢は多数です。

意志


スピリチュアルの意志はエゴが理解する「意志の力」(歯を食いしばって努力する感情的な力)とは違います。エゴによる意志はエネルギーを使い、労を要します。それとは対照的に、スピリチュアルの意志を起こすことは、水門を開け広げて後ろへ下がるようなものです。

エゴの意志は出来事を原因と結果の観点で捉え、個人的な意志が功績を主張したり、非難したりということをします。自分を原因と見るからです。一方、スピリチュアルの意志は個人的ではなく、意識の特性です。大いなるセルフの力の誘いに委ねることで状況を変えます。奇跡に見えるようなことをやってのけることができるのはこちら。個人の意志は、自動的に抵抗を引き起こすことが多いということです。

個人の意志のもう一つの限界は、カルマ的な傾向やちょうどよいタイミングの知識がないこと、また、有益となる順序を理解する知恵がないことです。

意識のアライメント


Spiritual alignment is with context rather than content. To watch the mind is far different from identifying with it.
スピリチュアルのアライメントは内容よりも状況に同調します。マインドを観察することと、マインドを自分とみなすことは全く違います。

ドロドロした感情や損得意識で世の中に参加せず、超然とした所からマインドを観察することで学ぶことがあり、ストレスもなく、心の平静が得られます。執着しない状態は、得ようという願望を捨てることで可能になります。

深く任せ、アライメントを続けていくと、自己意識がなくなり、観察者/目撃者としての自分もなくなります。大いなるセルフは本来完全で、欠けることなく、ポジショナリティに左右されることもありません。この場は内容と無関係です。ただ意識があるだけで、創造の展開に思い入れはありません。

質疑応答から


スピリチュアルの探求は情報を得ることから始まるとき、「もう分かった」とマインドが結論すると、それが障害になってしまう。障害を作らずに、妥当な情報を保持するにはどうすればよいかという質問について。すべて学習したことは、本来の真実が現れ、経験的に確認されるまで仮説として扱うということでした。

マインドはハードウェアのようなもので、プログラムされたとおりに再生します。この構造により、人間のエゴ/マインドは真実と虚偽を見分けることができません。仏陀もイエスも人間の原罪(欠陥)は、無知にあると教えたのはそこから来ているようです。

真実を十分に知るには、真実になることだと言っています。だから、完全な受容の境地にいくと、批判的な態度や怒り、恨み、非難、罪悪感、自己や他人を嫌悪するといったことを止めるようになります。しかし、それは極度なネガティブで破壊的な行動の弁解者になることではありません。生命を敬い大切にするという道徳上の義務は自分の生命も含みます。

意識レベルによって行動の選択が限定され、しかも、レベルよって、その選択肢もまったく違ってきます。これが分かると、批判する代わりに'compassion'(慈悲の心)を起こしやすくなるのです。

また、選択肢を限定する重要な要素の一つにカルマのパターンがあります。これには、性癖や報いられていない恩義、カルマ解消の機会が含まれています。通常、カルマは知覚することができないということです。たとえば、なぜ自分が~の面倒を見なければいけないのかと不満なとき、過去に恩義を受けたので、それに報いる機会が与えられたのかもしれないということですね。




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