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2016  07:06:53

幸せは誰に対しても愛をもって接する慈悲の行為からーダライ・ラマの書



左が原書で右がその訳書です。わたしは訳書を読んでいないのですが、多分こちらが訳書なんだと思います。ダライ・ラマの教えを集めた書ですね。読み始めたばかりです。

幸せの鍵


人生の目的とは…誰もが一度は考えることすよね。ダライ・ラマの考えはシンプルです。ずばり、「幸せでいること」です。

I believe that the purpose of life is to be happy.

それで気づきましたが、訳書のカバーにある"幸せになること”は、少し違うかも。"become"ではなくて"be"ですから。これから幸せになるのではなくて、今、幸せでいるということです。もっとも日本誤だと、「目的は幸せになること」としないと語呂が悪いのかもしれませんね。

幸せ(happiness)と苦痛(suffering)の種類は沢山あっても、大きく二つのカテゴリーに分けることができるそうです。精神的なもの(mental)と肉体的なもの(physical)。ただ、肉体的な方は、病気になったり基本的なニーズが満たされない場合を除いて、あまり考えることはありません。だから、精神面での平安を得ることに力を入れましょうと。

愛と思いやりがその鍵を握るようです。この世に生きる限り、問題が起きるのは避けられないけれども、誰もがくぐり抜けることだということを思い出せば力が湧いて来るというのですね。同時に、他人が苦境に立たされているのを見ると自然に思いやる気持ちが起こり力になりたいと思う。これによって、自分自身がさらに強くなり、平静さを失わなくなるということです。

世界は本質的に愛と思いやりで支配されている


本来、人間(動物や昆虫も然り)は持ちつ持たれつの関係で生きています。これは、何も生物だけに限ったことではなく、物質も互いの関わりの中で存在するといいます。化学反応もそうなんでしょうね。よく、すべては愛だと言いますが、このことだったんですね。互いに助け合って存在しているということなんでしょう。だから、愛が必要なのです。

英語で"No man is an island"という表現がありますが、これも同じことを意味しています。人は一人では生きれないということです。他の人の助けがなければ生きられない。確かにそうですね。普段の生活を見るだけで、誰かの発明や労力があっから快適に生活できているのが分かります。

赤ん坊は、抱かれたり優しくあやされたりすることなく放置されると間もなく死んでしまうというのを聞いたことがあります。ということは、ここまで生きてこれたのは、少なくとも赤ん坊のとき愛情を受けたということなんですよね。

愛を感じられずにいると、他の人を愛することができなかったり、病気の治りが遅かったりといろいろな弊害があることをダライ・ラマは挙げています。また、アメリカの科学者から聞いたこととして、アメリカでは精神病の率が高く、主な原因は物質的なものではなくて、十分な愛情を受けていないことが分かったそうです。

また、ダライ・ラマは、この世界が本質的に愛と思いやりで支配されていると信じています。怒りや憎しみに支配されていれば、人類は滅亡していただろうと。戦争を何度もくぐり抜けてもなお世界の人口が増えていることで、愛と思いやりが優位であったことが分かると言います。

そして、次の文章が来るのですが、これを最初読んだとき理解できませんでした。

This is why unpleasant events makes news; compassionate activities are so much a part of daily life that they are taken for granted and, therefore, largely ignored.

「そういうわけで、不愉快な出来事がニュースになるのです。思いやりの行為は日常の一部になってしまっているので当たり前だと見られます。だから、概して無視されることが多いのです」

そうか、不愉快な出来事は当たり前でないからニュースになるのですね。当然のことはニュースにのぼらない。

"compassion"(思いやり、慈悲)は、"desire"(望み)と"attachment"(愛着)の感情と混同されることが多いとして、幾つか例が挙げられていました。

慈悲とは


親の子供に対する愛情は、自分のニーズに強く引きずられていることが多いので、完全な慈悲ではありません。結婚における夫と妻の間の愛情も、特に新婚ホヤホヤのときは、相手の性格をよく知らなかったりして、真の愛情というよりも執着に依存しています。そうあって欲しいという気持ちが勝って、相手に投影していることが多いのです。しばらくして、相手がそうでないことに気づくと幻滅したりします。

This is an indication that love has been motivated more by personal need than by genuine care for the other individual.

これは、相手を真に気づかっているというよりは、個人的なニーズから刺激された愛情であると。深いですね。誰かに愛情を感じているとき、これは自分のニーズから来ているのか、それとも本当に相手のことを思う愛なのか自問する必要がありそうです。

True compassion is not just an emotional response, but a firm commitment founded on reason. Therefore, a truly compassionate attitude toward others does not change even if they behave negatively.

やっぱりここでは「慈悲」とした方がいいみたいですね。「愛」という言葉を使うと、センチメンタルな自分本位の愛と混同されがちです。これは、ただの感情的な反応ではなくて、確固とした理性に基づくコミットメントだから、たとえ相手がネガティブに振る舞っても慈悲の心は変わらないわけです。

慈悲は、相手を選ばないということも書いてありました。万人に対して、相手が苦痛を克服して幸せになるように力になりたいという気持ちです。相手も喜びや苦痛を感じる自分と同じ人間なので、相手によって差別したり、相手の行動によって慈悲を差し控えるという論理は成り立たないのです。

慈悲の練習


"practice compassion"とは慈悲を練習するという意味ですが、誰に対しても思いやりの気持ち(慈悲)が持てるように練習の積み重ねをしなければいけないのです。その準備として、怒りと憎しみの感情を手放す必要があります。この二つの感情はかなり強力で、怒りの場合など、脳の大半の機能が阻害されて、理論的に考えることが不可能になります。

こみ上げる怒りが起こったとき、怒りと同じくらい強力だけどもっとコントロールのきいたエネルギーで困難な状況に対処することが可能です。冷静な判断と忍耐から来るエネルギーです。自分の立場をしっかり相手に伝える必要はありますが、相手を害しようとか怒りで対応するのではなくて、相手への思いやりを忘れずに自分の意見を冷静に伝え防衛するのです。そういう意味で、怒りがこみ上げたときは、一度、その場を離れてクッションを置くのも一計だなと思いました。

さて、練習するからには、自分を鍛えなければなりません。友人が相手では練習ができません。そういう意味で最善の先生は敵であると。わたしたちを困らせてくれる人たちです。確かに。状況が変われば、かつては敵だった人が友人になることもあります。

ダライ・ラマ自身はいつも友人を増やしたいし、スマイルが大好きだそうです。

I try to treat whomever I meet as an old friend. This gives me a genuine feeling of happiness. It is the practice of compassion.

だから、ダライ・ラマはいつもにこやかで、誰に対しても旧友のように親しみを持って接しているのですね。これが慈悲の行為で、本当の幸せをもたらしてくれるそうです。


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