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2015  08:21:20

大自我と二元性、エンライトメントなど|ホーキンズ博士の著から

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ちょっと間があきましたが、前回の続きで、デヴィッド・ホーキンズ博士のDissolving the Ego, Realizing the Self: Contemplations from the Teachings of David R. Hawkins, M.D., Ph.D.の最後の章(Realizing the Self)を見ていきたいと思います。

ちょっと復習をすると、小さなセルフ(エゴとマインド)から大きなセルフに意識レベルを上げていくために、まず、エゴとマインドの正体が明かされ、次に小さなセルフを乗り越える方法がいくつか提示されました。

最後の章は、大きなセルフについてなのですけど、ホーキンズ博士も下記で言っているように、言葉では表現するのが困難だということで、いよいよもって頭がクラクラする文が並んでいました。とうことで、自分で理解できないところはさっ~と素通りして分かるところだけでまとめてみます。

The Reality of the Self is ineffable--beyond the limitations of mental activity, words, and concepts.

"Reality"が大文字で始まっているのは、大きなSelfの現実だからです。大きなセルフの現実は、言葉で言い表せない。メンタル活動や言葉、概念の限界を越えている。(ここから大きなセルフは大自我としますね)。

神、大自我、真実の本質


すべては、欠けることのない完全な創造されたままの状態で存在しています。

ナノ秒の観察では、実際には何も変化していません。変化しているのは、目撃者の位置と観察の視点です。

創造者と被創造者のあいだに仕切りはありません。自己進化と自己達成の宇宙は、何の介入も必要でないからです。すべては完全に均衡で調和しています。

命は、すべての存在の究極の源泉である神の光から生み出されます。この展開で、意識が仲介の役割を果たします。

真の大自我は、目に見えず、評価される特徴を持っていません。それは、描写できる性質のものではなく、また、形容される対象でもありません。大自我は、動詞や副詞、形容詞を越えたところにある存在そのものです。それは、何かを「する」ことさえありません。

大自我は、子供を見守る内なる祖母のようなもので、レインコートを着るのを忘れないように、家賃を払うのを忘れないように気遣います。

神性の純粋さはエゴの理解を越えています。エゴは、形でしか捉えることができず、常に主体と客体の二元性で見るからです。

神の「裁き」はエゴの幻想で、子供のときに罰を受けたことから罪の意識が投影されて起こります。神は親とは違うことに気づくように。

神の存在


スピリチュアルのことについて興味が覚醒されることは、神が存在する最初の証拠であり、エゴのダムにヒビがいったということです。人がスピリチュアルの向上を目指したり、練習したり、情報を追求するようになるとき、その人の人生がすでに神の方に向いたことを意味します。

主体的な経験をする、あるいは完全さに気づくというのは、常に存在してきた状態に目覚めることです。連続した経験の目新しさは消滅し、それにつれ、期待感や後悔の念、待ち望んだりコントロールしたい願いも消えます。存在としての存在は完全で完璧、すべてのニーズはすでに満たされています。何も得るものも失うものもなく、すべての価値は同じです。ちょうど、どの映画も同じように楽しいようなものです。その楽しさは、「映画を見に行く」ことから生じて、何の映画かは関係ないからです。

エゴ/マインドは、習得した行動パターンのセットであり、最終的なゴールは、そのプログラムを超越すること。大自我の存在は、個人的な自我の進化も含めたあらゆる人生のすべての表現に情けを持つこととして経験されます。その結果、激しい非難は許しに置き換わり、これで、不当なストレスを負わずに、さらに真剣に内の棚卸しを進めていっても大丈夫だという合図になります。

神の存在は、エゴとエゴが捉えた立場を放棄するとき、自然に認識されます。

二元性


大自我の現実は非二元性です。非二元性の状態を表そうとすれば、普通、その反対のことを強調し、正確には描写できない現実を指すことになるのですが、主体的な経験でしか分からないものです。

非二元性における覚醒では、もはや相次いで起こることもなくなり、覚醒が経験に取って代わります。瞬間の経験がなくなり、あるのは、途切れることのない「今」だけです。瞬間は、時間の外に置かれたスローモーションのように感じられます。

不完全なものはありません。実際に動いたり変化するものはなく、出来事も起こりません。シーケンスで起こる出来事ではなく、すべては展開する段階で、形あるものはすべて知覚とメンタル活動の観察の癖で作られた推移する付帯現象でしかないことの記録です。

実際には、すべては、宇宙の無限の可能性の一表現として顕現します。

非二元性の現実では、特権もなければ、利益も損失も、地位もありません。海に浮かんだコルクのように、それぞれのスピリットは、意識の海の上で、外部の力や助けによってではなく、各自の選択のレベルによって、浮いたり沈んだりします。光に引かれる者もいれば闇を求める者もいますが、 天与の自由と平等に基づき、すべては、それ自身の性質から起きます。

エンライトメント


("Enlightment"なんですが、悟りだと仏教用語のようだし、啓蒙だと的が外れているような。難しい言葉です。エゴを超越した最高に高い意識レベルの状態のようですが)

エンライトメントは、進化する認識で、最終地点やスピリチュアルの完成を表すものではありません。

エンライトメントは、真実の認識に対する障害が取り除かれたときに現れる真実です。雲を取り除いたという条件で太陽の光が輝くのではなくて、すでにあった光がはっきり見えるようになったのと同じです。

何度も何度も生まれ変わって、あらゆる宗教や哲学を勉強したあげく、結局、混乱してしまい、落胆することもできます。「知識を得る」のを目指すのではなく、「知る(悟る)」ことです。「知る」とは、主体的な経験を指します。「知識を得る」のは事実を蓄積することになります。

エゴはいつも何らかの立場を取ることに注意しましょう。まだ経験不足な場合、これは、無意識のうちに起こります。そして、立場が相反するように見える二元性を自動的に創造します。このとき、マインドは、歪んだり、拡大したり、あるいは意味や意義を縮小するレンズのような知覚の世界を作ります。この知覚は、信念体系と推定の産物で、注意をそらすフィルターになります。したがって、二元性からは本質を捉えることはできません。

インプットはエゴのプログラムで編集され、現実は知覚のスクリーンの裏でぼんやりと見えなくなります。したがって、小さなセルフは、編集された情報の中で生きているということに。情報の処理(編集)時間は1秒間の1/10,000で、このあいだに、知性ととりわけ記憶が大きな役割を果たしながら、情報の意味の翻訳も同時に行います。

エンライトメントへまっすぐ通じる道は、内観とメディテーションに専念し、意識を理解するためにエゴの働きを熟考することです。

大自我は、覚醒能力を持つ形のない主体の源です。コンピュータのハードウェアのように、無垢で不変、無限、時間を越えています。その一方で、エゴは、形の領域で全データの記録を取り、処理して、プログラムを継続します。多数はエゴのソフトウェア・プログラムを自分だと思っています。エンライトメントの条件は、この小自我の認識を覚醒の源泉である大自我の認識に置き換えることです。

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やっと終わりました。本書は読んだだけでは頭に残らないと思ったので、結構、難文でしたが、がんばってみました。多分、半分くらいしか内容をつかんでいないかもですが、まとめているうちに、ホーキンズ博士の言わんとするエッセンスは少しつかめたかなと思います。



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