21
2015  08:05:13

小さなセルフを越えて内なる自分に通じる道

butterfly-1390152-638x421.jpg


Dissolving the Ego, Realizing the Self: Contemplations from the Teachings of David R. Hawkins, M.D., Ph.D.

前回の続きで、デヴィッド・ホーキンズ博士の著から、小さなセルフを越える道を2つまとめてみます。

内なる自分を経験する


時間と空間で支配され、五感で知覚される外部の世界の他に、主観的経験があります。これは、内なる状態です。ホーキンズ博士は、感情に動かされない、内部の覚醒した意識に目を向ける道を示しています。

焦点を自分の内部に向け、すべての経験をまったく主観的に観ます。あらゆる瞬間、あらゆる状況で、ラベル付けをせずに自分の内部を見つめるとき、常に変わることなく存在する主観の本体があることに気づきます。この主観的経験なくしては、自分が存在することを知るのは不可能です。

"I"というのは、コンテンツでもデータでもなく、プログラムのコンテンツから数個のステップを取り除いた非個性的なフィールドであることが分かります。そうすると、我は参加者や対象者ではなくて、視聴者であることに気づくでしょう。

覚醒した意識の領域は、自律し、力むことのない、平和で、あらゆるものを含み、プログラムされていないものです。自由で、束縛されず、自然で冷静、誕生や死に支配されません。この領域は、シンプルで容易、くつろいだものです。「努力」よりも「無抵抗」の結果として現れます。

真実の定義への精神的アプローチはすべて、抽象から経験へ、客観的と思われるものから徹底した主観へ、枠組みの飛躍を強いられることになります。描写と絶対的真理のジレンマを解消するには、意識そのものを研究する領域に飛び込まなければなりません。「知っている状態」を実際に検証できるのは、それになること(being)以外にありません。頭で考えるのでは、それに「ついて」の描写でそのものではありません。たとえば、人間は猫についての知識は持っても、猫自身でなければ実際に猫であるのがどういうことなのか分からないのと同じです。

+++++
結局、頭でどうだこうだと考えず、瞑想するなどして、ジッと自分の内を見つめるのだと思います。普段は、エゴやマインドの雑音で、内なる自分が感じられないし聞こえません。

でも、人間って追い込まれると、この境地に入るような気がします。

たとえばですけど、危険だというとき、頭で考えている暇がないので、かえって冷静に行動できたという経験ありませんか? そのときは、感情がないけど、後で考えると「こわ~い」と思ったりします。高速を走っていて5車線の真ん中でエンジンが突然止まったとき、導かれるように車線変更して、路肩に車を止めた経験など、あとで考えると恐怖です。

あとは開き直りというのも、これかもしれないと思いました。もう、自分の頭で考えても仕方ない、どうにでもなれと思ったとき、変に心が落ち着くということありますよね。エゴもマインドも飛び越えて、ダイレクトに内なる自分にリンクするからじゃないかしら。

目撃と観察


エゴが感覚を経験し、それをプロセスすることに集中しているのを、傍観者のように目撃し観察すれば、焦点のシフトが起こって非個人的な覚醒に移ることができます。

マインドの一般的領域を観察していると、流れる思考の特定な内容自体は、実りあるものでないことが多いのに気づくでしょう。そこから一歩下がって離れ、何を目撃し、観察しているかを認識して、思考の流れを記録する次の意識レベルに入る必要があります。目撃とは、意識自体に先天的に備わる非個人的な性質のものです。思考のコンテンツに入り込まないで、目撃、観察するという観点を選ぶことができます。

目撃や観察は、どんなアイデアやイメージにものめり込まず、流れるにまかせることです。そうすると、思考のイメージが無意識に起こり、思考の流れが非個人的であるのに気づくでしょう。肉眼がただイメージを見るだけでイメージの著作権を主張せず、肉体の耳が音の著作権を主張しないのと同じです。思考は"I"という固人によって作られたものではなく、観念と感情のプログラムの組み合わせの結果です。

人生の映画の中の役者から目撃者/観察者の立場に移ると、感情的に巻き込まれないまま人生に参加することができます。こうして、自分の立場や結果を重要視する誘惑が緩和されます。個人的な意志を捨て、神の意志に任せるとき、創造は途切れることなく進化し、覚醒の展開を促すでしょう。

すべてを思考で捉え、コメントや意見、好み、価値観を差し挟むことを止めると決意するのは有用です。判断せず、価値を与えず、編集せず、コメントを差し挟まず、目撃したい好みを決めず、ただ観察するのは、自分を律する訓練がいります。

現象は現れては消えていきます。ある現象を経験したいという望みや、その経験の心地よさを味わいたいという希望を、常に捨てなければなりません。

意識/覚醒は、目撃/観察の機能のすぐ下あるいは直前にあり、空や空間そのもののように無言で不動です。期待や執着、快楽の追求、不快感の回避を手放すことで、はかなく消えるその瞬間から焦点をずらさず見定め続けることができます。この落ち着いたポジションにあって、メンタル活動とイメージングはしだいに後退し、その下の領域が望みや思考自体の意図で活性化されることが暴露されます。

変化を強要する代わりに、ただそのままに任せ、抵抗や損益の幻想を手放せば、幻想は自然に消えていきます。

客観的に観察することで、条件が合ったとき、可能性の顕現として、人生が現実の自然発生の結果であることが明らかになってきます。

+++++
ホーキンズ博士の文は難解です。でも、言っていることは何となく分かります。東洋の思想に通じるところがあると思うのですけど。無我、無心になって、観察する。茶道や武芸、スポーツ競技、あるいは創作活動を行っているとき、無我、無心になっていることがあると思います。あれかなと思いました。確かに、感情も雑念もなく澄み切っていて、瞬間をそのまま見ている、そして次の最適な行動が自ずと分かる境地、かな。

あと残りの2つは、メディテーションと神と真理に専心する道ですけど、省略します。



関連記事

 意識レベル

 内なる自分

0 Comments

Leave a comment